MAMESHIBA DIARY

Every hundred feet the world changes

もうそんなに「ありがとう」なんて言わないで。

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こんにちは! かほです! 韓国人夫との他愛のない日常を描いています。

どれだけ伝えても
伝えきれないありがとうの気持ち

本当にありがとう


 

 父の妹である私の叔母が体調を崩したのが去年の秋口のこと。 微熱が数週間続くと言って検査してもらったのが全ての始まりだった。 数日間の検査入院の結果、血液の癌が見付かった。 その後すぐに入院と治療が始まって、近くに住む母は入院中のあれこれに何度も自宅と叔母宅と病院を行ったり来たりしていると話していた。

 母と叔母は、1歳違いの義理の姉妹だった。 二人とも境遇がよく似ていて、お互いに人当たりのいい性格。 例え本当に血が繋がっていなくとも家族として、時に友人として、理解し合い支え会えることが多かったのだと思う。 私や従兄弟が巣立ってからはより一層仲良くなっていた気がする。 私にとってもいい叔母であり、よき理解者でいてくれた。 父が闘病中も、父に寄り添うだけではなく母や私に対して本当に手厚いサポートをしてくれた。 私が韓国で結婚式を挙げた時も母と一緒に韓国まで来てくれて、婚姻届のサインも母と叔母にしてもらった。 それほどまでに私や母にとって大きな存在の女性だ。

 

 約半年間の闘病生活の末、今年の春先には抗がん剤治療を終え経過観察へと移る事が出来た。 その後もしばらくの通院と検査を続け、無事寛解宣言。 これでひとまず安心した。 ように思えた。

 叔母がある時、最近物忘れが酷くなったり咄嗟に言葉が出て来ないことがある。と話した。 念の為、経過観察の通院時に担当医に話すとそのまま脳の検査をすることが決まった。 そして脳に癌が転移しているのが見付かった。 詳しい話は聞いてもよく分からなかったんだけど、叔母の場合は非常に稀なケースらしく、前例も少なければ中年くらいの担当医にも経験がないと話していた。 出来たところが悪かったのかそもそも能の癌の特徴なのか、抗がん剤治療は効かないということを告げられた。 それでも希望は捨てずに放射線治療をしましょう、ということで母が病院まで送って再び入院をしたその日の夜。 突然、危篤状態に陥った。 当時はまだコロナ警戒期間中。 例え重篤な状態にあっても母は家族であって家族ではないから、面会には行けずなかった。 一時は絶望的に見えたが、なんとかその後意識が戻ったと報告があった。 脳に癌があるという事は、次にいつまたこうなるか分からないんだと聞かされた。

 その後、ツラい治療とリハビリを重ね、さらにはコロナの5類移行もあって短い時間であれば病室に通してもらえることになった。 久しぶりに会った叔母は、髪がなくなりそして声がうまく出せなくなっていた。 看護師さんの配慮もあって、15分と言われていた面会時間を大幅に過ぎて1時間程個室内でお喋りする事ができた。 意外と美味しい病院食の話、会わない期間に私が太った話、物忘れが酷いからこうやってなんでもメモを取るんだ〜とメモを見せてくれたり、なんてことない話をいつものように話した。 面会時間も終わるから、また来るねと話して帰った。

 その後、病状も少しましになってきたことから退院許可がおり、今後は通院での治療することとなった。 そのほんの数週間後、なんとも呆気なく再発した。 「次に再発したら、もう出来ることは何もありません。」 そう言われていた。 これ以上病院にいてももう治療ができないならせめて1日でも早く自宅に帰してあげようと、緩和ケアをしながら自宅療養をしようと24時間対応の訪問看護の手配に写った。 そうして叔母は8月初週にようやく自宅に帰ることができた。 祖母が亡くなったあと、叔母は持っていた自宅を売却し、思い出の詰まった実家を相続・リフォームし、そこにひとりで住んでいた。 その大好きな実家にようやく戻ってくることが出来たのだ。

 母から連絡を貰い、私も叔母宅に会いに行くことを決めた。 もう、いつ何が起こるか分からないから、何かあったらすぐに病院に戻ることになるから、出来るだけ早く帰ってきなさいと言われ、その数日後に帰った。 それが先週の日曜日。

 

 叔母のおうちに入ると、私達の他に何人かお見舞いに来ていた。 そのうちの一人の方はどうやら遠方に住んでいるらしく、手を握って涙ながらに話していた。 きっと、恐らく、これが最後になるだろうとお互い思って話していたんだと思う。 次は子どもたちを連れてくるねって、叶うかどうか分からない約束に生きる希望を乗せてその方は帰っていった。

 ようやく私が叔母の左側に立つと、寝たきりの叔母は私の頬を撫でた。 続けて二の腕、前腕、そして手。 叔母はもうほとんど出ない声を振り絞って「むちむちや」といつものように笑ってみせた。 「前会った時よりちょっと痩せたはずなんやけどな〜」(脂肪吸引してるから)と言ったけど、それでもなお肉付きの良い私の顔や体が愛おしいと言ったような表情でただにこにことこちらを眺めていた。 ほんの2ヶ月前に会った時も痩せたと思ったけど、今はもうそれ以上に痩せて弱ったという感覚だった。 何度も何度も刺したであろう注射の箇所が痛々しくあざとなって、その生理現象が、「必死に生きているんだ」と叫んでいるようだった。 痩せてもスベスベで色が白くて綺麗な叔母の手を私も何度も撫でた。 触れないといけないと思った。 先程まであんなに泣いていた叔母。 私はこれが最後だなんて思いたくないし、思わせたくなくて出来るだけいつも通りの会話をした。 私の骨格がごついのは間違いなくお父さんのせいだとか、子どもの頃は毎年正月にこの祖父母の家に全員で集まって蟹すきと焼肉をしていたこと、その蟹がとにかく立派だったこと、なのにばあちゃんは子どもは肉が好きだと思って我々従兄弟達の為にいいお肉を大量に用意してくれほとんど蟹を食べられなかったこと、実はこの家の2階に上がったことがないこと(階段が急だから登っちゃだめだよと子供の頃に祖父母に言われていたから)、豆柴くんが盛大に太ったこと、できるだけ明るい話をたくさんした。 

 その会話の途中途中、叔母は私を見て、「やっぱり女の子やなぁ」と笑っていた。 女の子は大人になってからも親や家族を大事にしてくれるし気を遣ってくれて優しいと。 「女の子じゃなくても私より○○ちゃん(従兄)の方がよっぽど優しいと思うけど?」と言うと、「間違いない。」と母が皮肉を言ってそれに叔母も笑って。 かと思えば「お母さんのこと大事にしてよ?」と強く強く手を握って伝えてきた。 こんなに細くなった腕に、そんな力があるなんてね。 「うん、分かった。」と言うと安心したように笑ってた。 それから何度も何度も、「ありがとう、ありがとう。」と伝えてくれた。 私にも、母にも。 本当に何度も何度も何度も。 「こちらこそありがとう、あの時○○してくれて。」「韓国の結婚式にも来てくれたし、あの時もあぁだった。」そう返しても、ずっと叔母は「ありがとう、ありがとう、ありがとう。」と伝え続けてくれた。 まるで伝え残しがないようにと、念入りに何度も、細く弱い声でありがとうと言い続けた。 「もうそんなにありがとうって言わないで」と母が言った時、泣かないようにと決めていたのに涙腺が崩壊し涙が止まらなかった。 十分伝わったから、その気持ち。 そんな、まるでこれが最後みたいに何度も言わないで。 そういうと、叔母はすっきりした顔で「もうこれでおしまいや」「全部最後」と言った。 きっと自分の死期を悟ってる。 これ以上治療はできないと言われ自宅に戻れたこと、それからたくさんの人が会いに来てくれること。 私はいよいよ死ぬんだろうなと思ってしまってると思う。 でも、大事なことだから。 不謹慎だとしても叔母にとっても、残される人達にとっても、顔を見て感謝を伝えることは何よりも大事なことだから。 そこで少し泣いてから、もう想いは伝わったよと、また出来るだけいつも通りの会話に戻した。

 そういえば昨日、叔母の高校時代の友人が来てくれたって。 もう何十年も親交のあるお友達が、会いに来てくれたって嬉しそうに話してた。 母が「あとは誰に会いたい?誰に連絡しようか?」と声を掛けると、嬉しそうな顔で「お兄ちゃん。」と言った。 それ見てまた涙腺が爆発。 もう亡くなってしまった私の父。 「そんなの、もう少ししたら祖父母とも父とも会えるよ。旦那さんも幼い頃に亡くなってしまった2人の子ども達も、きっとみんな向こうで待ってる。 会えたら、そこから先はずっと一緒。」と、心の中で思ったけど結局なんて伝えるのが言いのか分からなくて黙った。 叔母は大人になっても父のことをお兄ちゃんと呼び、すごく慕っていた。 自分の命が切れそうな時にもう亡くなってしまった実の兄に会いたいなんて。 この時ばかりは、私の顔がもう少し父に似ていたらなと思った。 もし私がもっと父に似ていたら叔母は私の中に父の面影を見付けて喜んだだろう。 もし父に会えたなら、その時はどうか叔母を思う存分褒めてあげてほしい。 父が亡くなってからこの13年間頑張ってたよ、すごく。 母とも仲良くしてくれてたよ。 私の旦那さんとも仲良くしてくれたよ。 だからたくさん褒めてあげてね。 きっと喜ぶ。

 

 この記事を書き始めたのが今日のお昼頃。 そして15時過ぎ、母から叔母が亡くなったと連絡が入った。 本当なら「また、すぐに会いに帰るからね。」と締めようと思っていたこの記事、願いも叶わなかったな。 病気が発覚して1年足らず。 こんなにもすぐこの日が来るとは思わなかったな。 でも静かに穏やかに、家族に見守られながら逝けたそうだ。

 明日は台風最接近。 16日はどうしてもどうしても仕事で外せない予定があって夜まで帰れそうにない。 それでもなんとか会いに帰りたい。 1週間前、たくさんありがとうって目を見て手を握って伝えられたから、思い残すことはない。 今はただただ悲しいだけ。

 いつもよき理解者でいてくれてありがとう。 いつも優しくしてくれてありがとう。 母と仲良しでいてくれてありがとう。 生まれ変わっても、また家族になろう。

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かほ(No.080)

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