こんにちは! かほです!
いまだからはなせること
特別お題「今だから話せること」
朝、マンションのエレベーターを降りた瞬間に正面から生暖かい風が吹いてきて、「冬が終わった」と思った。 春が近付いているということは、今年ももうすぐ祖父の命日が来る。 その瞬間ふと父のことが頭に浮かんだ。 父が亡くなる少し前の祖父の命日の朝、父は夢に祖父が出てきたと言っていた。 枕元に立って父に向って何か話しかけていたんだと。 「親父が会いに来た」と朝から嬉々として話す父を怪訝な顔で見つめる私。 その約3か月後、父は祖父のもとに逝った。 あの時自分が見ていた景色を鮮明に思い出して、急に目頭が熱くなった。
反抗期真っただ中の15歳の春先、父は突然亡くなった。 くも膜下出血だった。 もう少し詳しく話すなら、その4年前から末期癌を患っており、発見した時にはもう全身に転移し治療を続けても余命はもって5年だと聞かされていた。 それでも弱音を吐かない父を見て、母は陰で泣いていたのを私は知っている。 知っていても本能的な もしくは ホルモン的な影響からか反抗することを辞められなかった。 私がクリスマスにプレゼントした手帳は半年も経たないうちに役目を終えた。 中を開くと、弱音を吐かない父の本当の正直な気持ちと、それに応えるように母のコメントがあった。 短い文章がぽつぽつと残された、まるで交換ノートのようだった。 今、あれはどこにあるんだろうか? 分からないけど、あの母が捨てるはずがない。 きっとどこかに大切にしまってあるんだろう。 両親は本当に愛し合っていたんだと思う。 亡くなって13年経った今でも「生まれ変わってもお父さんと結婚したい」と本気で言うのだから、それを【愛】と言わないのならこの世に本物の愛などどこにも存在しないと思う。
その日の朝は顔も見ずに家を出て、放課後部活が終わる頃には集中治療室の中でたくさんの機械に繋がれている父を見た。 まるで医療ドラマの世界のように主治医の先生と看護師さんが挨拶に来て、淡々と容態を説明し、まるでお決まりの台詞のように「今晩が山です」と聞いた。 あぁ、本当にそれ言うんだなぁとなんだか宙に浮いたようなふわふわした感覚で、どこまでも他人事のようだった。 あとはもうその時を待つこと以外、何もできなかった。 どう立ち振る舞うのが正解か分からなくて、叔母に「手を握ってあげて」と言われ横に座った。 だらんと力のない手を握ると、まだ生きている人間とは思えない程に冷たかった。 しばらく握っていると私自身の熱が移って、生気のない手もほんのり温かくなった。 これがドラマなら「もうだめだ」と思ったところから大逆転劇も起こる?なんて思いながら一生懸命冷たい手を握り続けた。 声は掛けなかった。 最期になるかもしれないと分かっていても、親族が大勢いる前でどうしおらしくいればいいかもわからなくて、結局この期に及んで思春期が邪魔をした。 黙ってただ手を握る私を見て母は喜んでいた。 もう長らくまともに会話していない娘と夫が手を繋いでいるから、「お父さん、よかったね。いつぶりだろうね、こうやって手を繋ぐのは。」と声をかけていた。 いいことなんかあるもんかと、心の中で思った。 こんな時まで正直な気持ちを口にできない私を、最期までいい娘でいられない私を、「よかった」の四文字で正当化することはできなかった。 今だってそう思う。 反抗期なんてなければ、もっと聞き分けのいい心優しい娘だったら、父はもっともっと長生きできたんだろなんて根拠のない仮定を想像してやまない。 「考えたって仕方のないことは考えない」が私のポリシーだけど、これだけはあれから何千回と考えた。 父は苦しい夜をなんとか超えて、翌早朝に静かに亡くなった。 不謹慎かもしれないけれど、すごく安心した。 父は私が生まれたすぐ後からいろんな要因が重なってずっと要介護だったから、本当に長い長い入院・闘病・リハビリ生活で苦しんでいた父自身も、介護に全力を尽くしてきた母も、そうしてそんな父にきつく当たってしまう反抗期の嫌な私も、皆が何かから解放された瞬間だった。
余命5年と聞かされて、4年目の春。 だんだんと弱っていく父を見ながらもこの状況に慣れてしまっていたのもある。 1日1日を大切にする感覚をまだ理解しきれていなかった。 だから、まさか癌以外の原因でこんなに突然いなくなるなんて思ってもみなかった。 それも朝まで元気だったのに、夜にはもう。なんて想像もしなかった。 けど、そんなことは至極当然のことだな。 事故や自然災害、犯罪、病気…1分後の自分にだって何があるか分からないのに。 5年と明確な数字を渡されてもなお、その重みを理解できなかった自分はとにかくバカそのものだった。
あれからもうすぐ13年。 父は東日本大震災を知らないし、平成が終わったことも、コロナウイルスの大流行や東京でオリンピックをしたこともしらない。 もちろん私が成人したことも、結婚したことも、夫がこんなに豆柴みたいな顔をしている韓国人なことも。 あれもこれも、父は知らない。 世界は大きく変わった。
その間、父は一度も私の夢には出てきてくれたことはない。 たったの一度も。 あの日父が見た祖父のように、枕元にも来てはくれない。 あの話をされた時、正直「ホラーやん。」なんて気持ち悪いと思ってしまったのだけれど、今ならそれが嬉しいことだと分かる。 こんなにも会いに来てくれない父がもしも来てくれたなら、起きた頃には号泣必至だろうな。
私は時々明晰夢を見る。 夢の中で自分の行動をコントロールできるあれ。 毎回ではないけれど、起きた時に「今日のは明晰夢だったな」と思う。 そういう夢を見た時には起きても内容まで事細かくはっきり覚えてたりするのが普通の夢とは違うところ。 今、そんな私の明晰夢の中に父が現れたら何を話そう。 謝りたい事、今思ってる事、それからこの13年であったいろんな事、将来の夢、悩み、不平不満、全部言おう。 アルコールにめっきり弱い父と一緒にお酒でも酌み交わそう。 私のお酒の強さは確実に母譲りだから、きっと父は「お母さんそっくりだ」とでも言うんだろうな。 顔も、声も、仕草も、13年前よりもさらに母に似てきたからきっと父は私を見て喜ぶと思う。 だってお母さんのこと本当に大好きだったから。
大人になった今だからこそ、「一杯呑もうよ」とか「私が運転するから買い物行こうよ」とかあの頃には出来なかったこと言いたいね。 でも本当に1番伝えたいことは「生まれ変わってもまた父と母の娘になりたい」だな。 あの頃は到底思えなかったことも、今だから本心から話せる。 大人になったんですよ、私だって。
いつか明晰夢の力を使って、自分自身の意思と言葉で父に話したい。
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かほ(No.039)