こんばんは。 かほです。
昨日お昼過ぎに散歩がてら1駅先の区役所まで歩いている最中、
速報で私の好きな女優さんの訃報を目にしました。
つい2か月前にも俳優さんの訃報を聞いたところで、
まだその事実を受け止め切れていない中で、またも私の好きな女優さん。
凡人の私には到底計り知れないほどの想いを抱えていたんだろうし、
ましてや家族でも自分以外の誰かの本当に考えている事なんて分からない。
私には何もできない。 過ぎてしまったことは尚更変えられない。
こんな時、よく聞く言葉がある。 気がする。
「生きたくても生きられない人がいるのに」
私この言葉、本当に嫌い。
自死を選ぶということは、生きることを諦めることじゃない気がする。
「生きたくても生きられない」のはその人も同じ。
「生きたくても生きられない」から、そうするしかなかった。
決して生きるのが面倒になったわけじゃない。 怠慢じゃない。
悩みながら耐えながら、一生懸命生きることに向き合った。
それでも苦しくて辛くて、生きていられなくなったのに。
死を考えるほど追い込まれるのは、きっと1か月やそこらの話じゃない。
何か月、何年。 目に見えない何かで心をえぐられてきた。
逃げられなかった。 寝ても冷めても、事実から目を背けることができなかった。
これ以上、生きられなかった。
それから
「あなたが死にたいと願った今日は、誰かが死ぬほど生きたかった明日。」
これも本当に嫌い。
死ぬほど生きたかっただろうよ。
体は生きていても心が死んでいく気持ち、
こんなこと簡単に言える人には分かりっこない。
私は大切な人を病気で亡くしたことがある。
その人は私にたくさんのことを教えてくれたし、
最期の最期まで未来の目標をもって、希望を忘れず、
むしろ私に生きる力を与えてくれた。
その人が残してくれた言葉は一生忘れることはないし、
その人の為にも強く生きようと思う。
それと同じくらい、生きていてほしかった。
その人が死ぬほど生きたかった明日を、私だけが毎日迎えている。
生きるというのは、そういうことかな。
ただ、これは自分で自分の心に語り掛けるものでしょ。
本気で死にたいと願っている第三者にこの言葉を伝えたところで、
「あぁ、私が本当に苦しんでいる事には目もくれず綺麗事いうのね。」
って余計に苦しくさせるだけ。 そんなこと言われなくても分かってるよ。
そんな綺麗事じゃなく、「私はあなたに生きてほしい」って、
ただそれだけ伝えればいいのに。
昔、心を病んでしまった時、死についてとても考えたことがある。
死にたかったわけじゃない。
でも死んだらどうなるんだろうと漠然と毎日毎日考え続けた。
もちろん、答えは出なかった。
私が仕事に行かなくても職場は回るし、朝は来るし、空は今日も青かった。
私はこの世でただ一人無意味な存在なんだと、いつも通りの世界を憎んだ。
悲しくもないのに突然涙があふれてきて、大声で数時間泣き続け、
終いには泣き疲れて寝てしまう。 寝るというか、気を失うといった感覚に近いかも。
朝起きてもお腹は空いていないし、喉も乾かないし、トイレも行きたくなかった。
人が生きていれば当たり前に感じる生理的欲求すら何もなくなった。
ありがたいことに皆が私を気に掛けてくれて、「大丈夫?」と連絡をしてくれた。
大丈夫でない瞬間はいくらでもあった。
落ち着いて携帯を見る余裕があるのは、決まって大丈夫な時でしかなかった。
「大丈夫」と言えてしまう自分が憎かった。
自分は絶対に大丈夫であってはいけないとさえ思った。
人に迷惑かけて、心配かけて、仕事にも行かない私は苦しんでいなければいけないと
間違った方向に追い込んでしまったこともあった。
少しずつ良くなってきていたものを、自分で壊した。
時々、自分を自分でコントロールできない瞬間があった。
突発的な何かのせいで、いつか自分は死んでしまうんじゃないかと怖かった。
きっと、この気持ちは実際にそう感じた人にしか分からない。
心の病は人それぞれ。 正解もなければ、終わりもない。
心の病を抱えている人同士であっても、当人の苦しみは理解しあえることもない。
それでも、私は今日も生きている。
もちろん心の病に終わりはないし、いつまたあぁなるのかと怯えてたりもする。
生きるって、綺麗事じゃないんだよ。
今はただ、ご冥福をお祈りするばかり。
かほ