インテリアコーディネーター資格取得のために、暗記しなければいけないことをただただポイントとして書き連ねているだけの記事です。 分かりやすさよりも「関連する用語」をひたすら書いています。 お勉強のお手伝いにはなりませんが、復習としてや、ちょっとした移動時間でテキストを開くほどでもない時にチラッと見るように使ってください。
こんにちは! かほです!
インテリアの歴史 ―日本のインテリアの歴史 ―
インテリアコーディネーターハンドブック〈上〉 P.30~
古代
1.先史時代
縄文時代
住居:
自然の洞窟などを利用。 竪穴住居。 円形や角の丸い長方形の平面を50㎝程掘り下げ、木で骨組み、草を葺いた屋根。 開口部は低い出入口と煙出し程度。 内部中央か脇の部分に炉が設置される。
弥生時代
住居:
一般的には竪穴住居。 竪穴住居より大きな屋根と壁が分離し開口部も多くなった平地住居もみられる。 のちの民家の原型。
高床式倉庫:
農耕が共同生活を促進。 穀物を湿気から守って貯蔵する。 吉野ケ里遺跡や三内丸山遺跡。 高い物見やぐらのある大きな集落がこの時代存在。
編織物:
発掘品の中には、網代編み・むしろ編みによる敷物も。 編織物による間仕切りが用いられていた。
高床住居:
4世紀半ば、大和政権の支配体制が確立。 住居に床が設けられる。 主に高位の人たちの住居や神社、寺院などの建築に結び付く。 (竪穴住居は農民など庶民が住む土間のある住居になっていく)
神社建築:
ほぼ7世紀後半頃。 大和朝廷成立当時から大陸の建築様式導入までの高床式の宮殿・貴族住宅が公式化されたもの。 伊勢神宮や出雲大社は、天皇の住まいのごとく作られた。
2.飛鳥・奈良時代
飛鳥時代
6世紀中頃、仏教とともに隋や唐から技術が導入され飛鳥文化が成立。 飛鳥寺(奈良)、四天王寺(大阪)、法隆寺(奈良)、薬師寺(奈良)などが建てられる。
奈良時代
貴族の住居:
大陸式の構造で閉鎖的。 部屋の前方に広い簀子(すのこ)敷を設けた。 奈良時代の貴族の橘夫人の邸宅の遺構の研究により。
▼簀子敷
インテリア:
正倉院に残る家具・調度には御床(ごしょう)、絨毯、屏風、椅子、厨子(ずし)など高度な技術の舶来物が多く含まれる。 大陸風のインテリアが積極的に取り入れられた。
▼御床(現存する日本最古のベッド)
▼厨子(仏像などの礼拝対象を納めて屋内に安置する、屋根付きの工作物)
3.平安時代
8世紀頃・日本独自の文化が進展・源氏物語など国文学が盛んに。
寝殿造:
地位が高い人の標準的な敷地面積は約120m×120m。 南に面する寝殿を中心に北、東、西、東北、西北に対(たい)と呼ばれる建物を配し、それぞれを廊下状のもので連結。
前庭は白砂敷き、南側には池のある庭園。 寝殿と対屋は似た構造で母屋、庇、広庇からなり、屋根は檜皮葺の入母屋。 中でも藤原氏の邸宅の東三条殿、京都御所が代表。
▼母屋・庇
▼藤原氏 東三条殿 モデル
しつらい:
寝殿造は納戸や寝所に利用する囲まれた塗籠のほかは、広々とした一室。 使用目的に合わせて、室内を設営する。 儀式や行事の際には、一定の決まりに基づいてさまざまな調度が配置された。 10世紀頃に成立したこの習慣をしつらい、またはしつらえという。 大きくは座臥具(ざがぐ)、屏障具(へいしょうぐ)、収納具に分けられる。
座臥具:
▨ 置き畳・・・畳は人が座るところに置かれるものであったため、その厚さや縁は身分によって分けられ、最高位の場合、繧繝縁(うんげんべり)が使われた。
▨ 円座・・・・菅や藺で編んだ直径90㎝程の丸い座具。
▨ 倚子・・・・高位の者のみが使えた。 座面に畳を置いて、腰を掛けず座り込む。 位の低いものは背のない床子(しょうじ)を使った。
屏障具:
▨ 几帳・・・・横木と台の付いた支柱をT型にし、横木に布をかけたもの。
▨ 壁代・・・・長押から布をたれ下げるもの。
▨ 御簾・・・・細く削った竹を使ったすだれ。 巻き上げておくことができる。
▨ 帳台・・・・寝所に設ける。 四隅に柱を立て、周囲と天井面に薄い布を施す。
▨ 蔀戸・・・・外部との仕切りをする跳ね上げ式の建具
収納具:
▨ 櫃・・・・・箱のようなもの
▨ 厨子棚・・・両開きの扉を持つ物入れ。 美しい装いを加えることで日常的な調度として発達。
▨ 高坏・・・・食事の時に用いる。
▨ 衝重・・・・食事の時に用いる。
中世
4.鎌倉時代
武士の住宅:
14世紀初めの記録には、草葺きの屋根に板葺きの庇、寝殿からは中門廊。 蔀戸と明かり障子、襖障子による仕切り。 畳敷きの部屋、屏風。 京を手本に寝殿造を簡略化・小規模化しながら新しい方向に。
14世紀、足利氏が京都に幕府を開いたことで、文化の中心は京都に戻る。 文化は公家の貴族趣味や禅僧がもたらした外来文化と結合、室町文化として新たな展開を。
書院造:
鎌倉時代末期から、室内諸設備の造作化・建築化が始まる。 接客の空間を中心とした形式で、桃山時代に完成。 のちの一般的な和風住宅に見られる床の間などの諸要素も、この形式の中で出来上がる。
▨ 畳・・・・・まずは小部屋から畳の敷詰めが始まる。 広い部屋は初めは周囲にのみ畳を敷いていたが、やがて全面に敷き詰められるように。
▨ 建具・・・・障子・襖・杉戸・舞良戸・雨戸などの遣戸と呼ばれる引きと方式の建具が設けられるように。 蔀戸は使われなくなった。 襖障子・板戸障子など透光性のないものも障子と呼んでいた。 薄い紙を張った明かり障子は、鎌倉時代頃から使われる。
▨ 天井・・・・書院造になると竿縁天井のほか、格式の高い部屋には格天井が設けられる。 折上格天井など豪華さを求める形も見られた。
▨ 床・・・・・鎌倉時代、僧侶が壁に掛けた仏画を鑑賞する際、その前に三具足(みつぐそく)と呼ばれる花瓶、香炉、燭台を乗せる卓子を置いた。 それが押し板という低い台になり、床の間の原型になったと言われる。 このような飾り方は座敷飾りと呼ばれ、中国の影響が濃く表れている。
▨ 棚・・・・・寝殿造においてちょうどとして用いられた棚や厨子が建築家し、床の脇に棚が設けられるように。 2枚の棚板を段違いにした違い棚が最も知られる。
▨ 書院・・・・本来書斎のことである。 宏遠に突き出して設けられた出文机に始まるる形を「付書院」というが、これが次第に実用性から離れて装飾的な意味を強める。
金閣・銀閣
この頃の将軍の邸宅は、貴族のものを受け継ぐ面が多かった。
座敷飾りのものを飾るための装置と、どう飾るかという飾り方の二面性は、室内装飾の多様な展開を産んだ。 花瓶や香炉を飾る押し板が固定化、絵画を飾る場所が設けられて床の間が発生、作り付けの棚が生まれる。 水墨画などにより障壁画や襖絵が各部屋の個性を表現する主要な媒体となる。 水墨画では雪舟が有名。また狩野派が水墨画に大和絵の手法を加えた画風を確立。
足利義満の北山殿(後の鹿苑寺、通称金閣寺)
公的な行事の場としての寝殿の他、日常生活に使用されるところも充実。 会所という遊芸を楽しむ接待用の場も設けられた。 当時盛んになった茶会の場として設けられ、贅沢な唐物で飾り付けられた。
足利義政の東山殿(後の慈照寺、通称銀閣寺)
一種の山荘であるが、その中に四畳半の同仁斎という部屋がある。 付書院、違い棚があるものとしては最古の部屋。
近世
5.安土・桃山時代
ポルトガル・スペインとの貿易が始まった時期であり、南蛮文化から大きな刺激を受けた。
城郭建築:
信長の築いた安土城は本格的な天守閣を持つ、極めて独創的で壮大なもの。 外観は5層、内部は7階で、1階から3階までは吹き抜けで舞台が設けられていたという。
桃山時代の後半には、各地に天守閣を持つ城郭建築が建てられた。 大阪城、姫路城、伏見城などが代表的。
城主の居館として書院造の建物が建てられ、その内部は金碧濃彩画を用いた狩野派の障壁画や、欄間や扉の蒔絵や鋳金金具によって、豪壮、華麗な装飾が隙間なく施された。 折上格天井により空間の社会階層の段階が細かく表現された。 江戸時代初期のものではあるが、二条城二の丸御殿はそうした特徴を持つ例として知られる。 強烈な装飾と空間を細かく分けることにより権力を表現。
▼金碧濃彩画
草庵風茶室:
茶の湯文化が進展したこの時代、室町時代の武家風の茶に対して、草庵風の茶が広まった。 完成させたのは千利休である。 茶の湯は簡素静寂を重んじる侘茶となり、建築、庭、道具などから立ち居振る舞いにいたるまでを含めた総合的な芸術に到達した。
草庵風茶室は、四畳半から一畳台目※までの小空間で、客は縦横60~70㎝程度の「にじり口」から出入りした。 (※台目とは普通のものより45㎝程短い畳のこと) 千利休が作ったとされる待庵や、織田有楽の如庵が著名。
極端に狭く方向性のない空間を、高さの違う天井の組み合わせ、複雑な平面構成、洞床の使用、多様な素材を用いて各種の技法で仕上げること、また明かり障子の効果的配置により複雑で味わい深く感じさせている。
6.江戸時代
数寄屋造:
茶室建築の手法を取り入れた住宅などの建築様式。 意匠面で特色が発揮され、建築の基本的な構成としては書院造の延長線上にあるとみなされる。 代表的な建築物は桂離宮。 親王の山荘として17世紀前半から建設が始まり、半世紀近くかかって今の形になった。
書院造の形式に縛られず、様々な面で多様に展開し、のちの日本住居の基本を作る。 床や床脇の棚、付書院は、茶室の影響で、自由な発想を生かした軽妙なものが増えた。 桂離宮の桂棚、修学院離宮の霞棚などがある。
建具では、襖の中央部に障子をはめ込んだものや、障子の組子の組み方に工夫を加えたものなど、さまざまな形が。
また書院造の進展の中で欄間への関心が高まり、華々しい衣装を競う欄間は目立つ存在になった。 しかし数寄屋造りでは単純でしゃれた意匠のものが好まれた。
民家:
▨ 平安時代・・・都市では町屋が主要な道路に沿って形成。 板や草で葺いた切妻屋根の長屋が多く、土間の一部に床を張った素朴なものだった。 間口3間の中1間を入口として通り庭を設け、採光と換気を行い、天候や季節を移す植栽が設けられた。 地方の民家は原始的な竪穴住居や平地住居の生活とあまり変わらないものであった。
▨ 江戸時代・・・商工業の発達が都市を発展、町屋は2階建てが多くなったが17世紀半ばの「明暦の大火」後は贅沢品を禁じる統制が行われた。 経済力のある町民は表向きを質素にしながら内部の造作に凝ることを欲求のはけ口とした。 江戸は火事が多かった為、防火対策として塗屋造が推奨。 在来の燃えやすい構造のものは焼屋造と呼ばれた。
▨ 農家の建築・・庄屋と小作の農民では大きな差があった。 各地の農村住宅では、数寄屋風の客間や、ダイナミックな構造を持つ土間空間に土地の気候や産業、暮らしの特徴が明らかに示されている。 岩手県の曲がり屋、新潟県や秋田県などの中門造、関東西部や山梨県などのかぶと造、長野県の本棟造、富山県や岐阜県の合掌造、奈良県などの大和棟、佐賀県などのくど造がよく知られている。
実用の面から土間の役割が重視されてきた。 一段上がった床の部分は板張りと畳敷きに分けられていることが多い。 また町屋では長火鉢やこたつが暖房用に使われるようになったが、農家ではいろりの利用が続いた。
工芸:
贅沢を禁じた政策の影響もあり小さいものに技巧が発揮される。 17世紀後期の元禄の頃、尾形光琳を中心とする琳派が、装飾がや工芸の分野で大きな影響力を持つ。 この時代には庶民の生活風俗を描く浮世絵が各地で発達し普及、国際的な評価を得る。
家具では箪笥の発達と普及があげられる。 衣類用のものは17世紀後半に使われ始め、武士や上層の町民の間で利用されるようになった。 火災の時に持ち出しやすいように二段重ねの箪笥も広まった。
近代
7.明治時代
新政府が目指したのは西洋のような近代国家にすること。 生活様式の西洋化に努めたために、衣食住の全ての生活文化において古い日本と新しい西欧ブルジョワ文明の衝突へと進んだ。
建築:
政府が官庁や学校の建築に西洋式を採用、次第に全国各地に洋風建築が建てられた。 中には大工や棟梁達が苦労して洋風らしい建築を作った例もあり、これらは疑洋風建築と呼ばれる。 明治宮殿と赤坂離宮では、当時のもっとも華麗な室内装飾が実現された。
▨ ジョサイア・コンドル・・・工部大学校の教育に携わったほか、19世紀末から20世紀初頭の間に鹿鳴館、ニコライ堂、三菱一号館、岩崎邸などいくつもの建築を設計。
▨ 住宅・・・・・1860年代に長崎に建てられたグラバー邸が洋風住宅の先駆け。 周囲にベランダをめぐらした、東南アジアの植民地建築風の特徴。 19世紀末には、コンドルが設計した岩崎邸なども建ち、その後も各地に西洋館と呼ばれる建物が建てられた。
▨ 明治宮殿・・・外観は純和風。 内部は公的部分はいす座式、詩的部分は床座式という和洋折衷の生活様式。 室内装飾も格天井とシャンデリアの組み合わせなど、書院造とバロックを強引に組み合わせたもの。
▨ 赤坂離宮・・・完全なバロック様式。 外部はベルサイユ宮殿を模して造られた。 内部は部屋によって用途にふさわしく様々な様式のデザイン。
▨ 庶民の住宅・・すぐに洋風化が進まず、江戸時代とあまり変わらない暮らし方。 明治末期になると都市を中心に生活の合理化に目が向けられる。
・・・続く